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BWV245 ヨハネ受難曲

2008年02月22日

「オランダ・バッハ教会合唱団&管弦楽団、ヨス・ファン・フェルトホーヴェン指揮」

用途:聖金曜日の晩歌
初演:1724年4月7日、ライプツィヒ聖ニコライ教会(再演:1725年3月30日、恐らく1732年4月11日、1749年4月4日)
歌詞:
ヨハネによる福音書18及び19章
マタイによる福音書:26章75節
B. H. ブロッケス(第7、9,20、24,32、34曲)、Ch. H. ポステル(第30曲)、その他に基づく自由詩。種々のコラール
編成:
ソプラノ:召使いの女
アルト、テノール:福音書記者
テノール:下役
バス:イエス
バス:ペテロ、ピラト
合唱、フラウト・トラヴェルソ2、オーボエ2、オボーエ・ダモーレ2、オボーエ・ダ・カッチャ2、ヴィオラ・ダモーレ2、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リュート、弦合奏、通奏低音
基本資料:一部自筆の総譜

バッハがライプツィヒに赴任して最初に迎えた聖金曜日のためにかいた受難曲。ヨハネによる福音書18及び19章の受難に関する記事の音楽化に自由詩楽曲とコラールを加え、

世に下った栄光の主、イエス・キリストが捕われて十字架につけられ、贖罪の使命を成就するまで

を描いたもの。バッハの生前に少なくとも4回は上演されていて、その度に改変されています。第1稿は一部のパート譜によって伝えられるもので、、今日知られている形と大筋で一致。

基本テキスト:

ヨハネによる福音書18及び19章
[ 18 ]

◆裏切られ、逮捕される
18:1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18:2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
18:4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18:5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18:6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
18:7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18:8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18:10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18:11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
◆イエス、大祭司のもとに連行される
18:12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18:14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
◆ペトロ、イエスを知らないと言う
18:15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18:16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18:17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18:18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
◆大祭司、イエスを尋問する
18:19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18:20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18:21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18:22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18:23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
◆ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う
18:25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18:26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18:27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
◆ピラトから尋問される
18:28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18:29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18:30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18:31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18:32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18:34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18:35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18:36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18:38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
◆死刑の判決を受ける
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18:39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
18:40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

[ 19 ]

19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19:2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19:3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19:4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19:5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19:7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19:8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19:9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19:10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19:11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19:12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19:13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
19:14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19:15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
◆十字架につけられる
こうして、彼らはイエスを引き取った。
19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
◆イエスの死
19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
◆イエスのわき腹を槍で突く
19:31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19:32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19:33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19:34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19:35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19:36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19:37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
◆墓に葬られる
19:38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19:40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19:41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19:42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

と、かなり長いですが、ここがメインとなる部分で、一部だけマタイによる福音書からの引用があります。

マタイによる福音書:26章75節
26:75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

「ペテロの否認」と言われる有名なところですね。

曲の構成ですが、この曲は第4稿に至るまでに何度も改訂され、その度に様々に変っています。どの稿を用いるかで変りますので、今回は割愛(などと書いていますが、かなり長い曲(CD2枚分)ですので、今回は手を抜いて全体の概要だけ)。

第1部:
弟子ユダの裏切り/捕えられるイエス/ペテロの否認

第2部:
ピラトの審問/死刑宣告/十字架につけられる/イエスの死/埋葬

となっています。さて、このブログで初の受難曲ですが、いきなり生演奏です。これまでバッハの曲をコンサートでたくさん聴いていますが、受難曲は初めての体験でした。
今回は1724年の初演版を使っています。この楽譜自体は失われていますが、音楽学者のピーター・デュルクセンが再構成して、それが今回演奏されたもの。第4稿とは色々な点で異なっています。楽章構成は、第4稿と大筋で一致していますが、変っているのが合唱、楽器編成。冒頭で編成を

ソプラノ:召使いの女
アルト、テノール:福音書記者
テノール:下役
バス:イエス
バス:ペテロ、ピラト
合唱、フラウト・トラヴェルソ2、オーボエ2、オボーエ・ダモーレ2、オボーエ・ダ・カッチャ2、ヴィオラ・ダモーレ2、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リュート、弦合奏、通奏低音

と書いていますが、今回はもっと少ないのです。実際に演奏された編成は、

声楽ソリスト:
テノール(福音書記者)
バス(イエス)
ソプラノ
アルト(カウンターテナー)
テノール
バス(ペテロ、ピラト)
リピエーノ(ソリストを補強する歌手):
ソプラノ、アルト(カウンターテナー)、テノール

オーケストラ:
ヴァイオリン/ヴィオラ・ダモーレ2、ヴィオラ、チェロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、コントラバス、オーボエ2、オルガン、テオルボ、チェンバロ

たったこれだけです。指揮者を除くと、声楽陣が9人、楽器が11人です。

声楽陣については、リフキン説に従って1パートの人数を極力減らしており、ソリスト(「コンチェリスト」とも呼ばれた)以外に「リピエーノ(ソリストを補強する歌手)」が3人参加しているだけです。リピエーノについては、恐らくバッハが1724年の初演で使ったと思われるリピエーノのパート譜が残っていた(コンサートパンフレットによる)ということです。
もはや合唱団という概念は存在しない感じです。4人のソリストが中央に配置されていて、アリアの時に、少しステージの前に出て歌います。

興味深いのが、フラウト・トラヴェルソが使われていないこと。これは、以下の部分から結論が出てきます。

1739年総譜の表題ページに非常に重要な指示が書かれている。ここでバッハはどうやら何も考えずに1724年verの次のような表題ページを写したものと思われる。「イエスの授けを得て!聖ヨハネによる4つの声、2つのオーボエ、2つのヴァイオリン、ヴィオラ、および通奏低音のための受難曲/J. S. バッハ作」。ヴィオラ・ダモーレとかヴィオラ・ダ・ガンバのように、臨時に加えられる曲のみに使われる楽器の名前はここには挙がっていない。その上、明らかにこれらはアンサンブルの奏者の一人によって「エキストラ」楽器として演奏されていた。トラヴェルソには当てはまらないであろう。トラヴェルソは1725年Ver.以来常に演奏に加わっており、それゆえバッハの新プランに含まれていたのである。1739年の表題ページに「2本のトラヴェルソ」の指定がないことは、必然的に、「オリジナル」Ver.が実はフルートなしで作曲されたという結論を導く。
公演プログラム中のデュルクセンの記事より

また、通奏低音の楽器編成。オルガン、チェンバロ、テオルボの3つの楽器が使われいたこと。これは、

私はドレフェスの言う、バッハは、声楽曲の演奏中に、しばしばチェンバロを弾きながら指揮したので、通奏低音は二重に、いや三重にさえなったという意見に同意する。ヨハネ受難曲のレコーディングにオルガン、チェンバロ、テオルボを選ぶことにより、表情豊かで色彩豊かな全く新しい可能性を開くことになる。エヴァンゲリストはバロック・オペラでするように、チェロとチェンバロの伴奏で物語を語り、一方キリストはオルガン、バス、テオルボの「黄金の」組み合わせを従える。アンサンブルの中の(即興演奏する)通奏低音楽器の組み合わせが常に変化することが、演奏に全く新しい生気を与える。
公演プログラムのフェルトホーヴェンの記事による

と述べているところによります。

わずかこれだけの編成でこの大曲が?と思ったのですが、実際に聴いてみると、声楽陣が非常によくまとまっていたこともあり、演奏の細部が非常によく聴こえるのです。コンサート前に、フェルトホーヴェンとデュルクセンによるこの曲の解説が20分ほどあったのですが、このことについても触れていました。大合唱団やオーケストラを率いていなくても、十分過ぎるくらいに迫力がありました。

演奏前の解説はとても興味深いもので、もっと聞いていたいものでした。そこでいくつか興味深いことを聞きました。この曲を教会で演奏する場合と、コンサート会場で演奏することの違いでした。教会では聴いているのはクリスチャンですから、物語の中で語られている聖書の記事について全員の理解があるということ。一方コンサート会場では、全員がクリスチャンとは限らないからどこまで歌詞が理解できるか?ということ。そういう意見があったので、今回の聖書の引用箇所が長いのですが、あえて全部載せたのです。実際の演奏中は、ステージの後ろにスクリーンがあって、そこに日本語で歌詞が出ていました。また、上で書いたように、全体の編成が小さい分、曲の細部をよく聴き分けることができました。どの楽器も埋没することなく、全体の一部分でありながら、それぞれのパートの必要性をしっかりと主張していたと思います。
逆にいえば、その分下手をすれば粗が目立ちことになりかねませんが、それをまったく感じないのは自信の表れでしょうか・・・
そして声楽陣についてもかなりの配慮をしていることが伺えました。ソリストと合唱の対比をどうするかについて細かな配慮がありました。実際の演奏でも、上で書いたようにアリアでは、ソリストがステージの前に出てきましたし、それ以外に声楽陣の配置もじっくりと考えられたものだと感じました。

演奏後、拍手が鳴り止まず、4回もステージに引き返して来るという盛況でした。終わった後サイン会があって、フェルトフォーゲン、デュルクセン、テュルクの3氏のサインを頂いてきました。

実によかった〜。次はマタイを聴いてみたいですね


演奏:
声楽ソリスト:
テノール(福音書記者):ゲルト・テュルク
バス(イエス):ステファン・マクラウド
ソプラノ:マリア・ケオハナ
アルト(カウンターテナー):マシュー・ホワイト
テノール:アンドルー・トータス
バス(ペテロ、ピラト):ヴァオルフ・マティアス・フリードリヒ
リピエーノ:
ソプラノ:アマリリス・ディールティンス
アルト(カウンターテナー):ダニエル・ラゲル
テノール:サイモン・ウォール

オーケストラ:
ヴァイオリン/ヴィオラ・ダモーレ:アントワネット・ローマン、ピーター・アフォールティト
ヴィオラ:ヤン=ウィルム・ヴィス
チェロ:ルシア・スワルツ
ヴィオラ・ダ・ガンバ:ミネケ・ヴァン・デル・ヴェルデン
コントラバス:ロベルト・フラネンベルク
オーボエ:マルティン・スタッドラー、ペーター・フランケンベルク
オルガン:ピーター・デュルクセン
テオルボ:マイク・フェントロース
チェンバロ:シーベ・ヘンストラ
ヨス・ファン・フェルトホーヴェン指揮
場所:2008年2月2日(金)兵庫県立芸術文化センター大ホール

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コメント (2)
» 投稿者: やーぼー

はじめまして、お邪魔致します。
小編成ながらけっこう迫力あった演奏だったようですね。
ボクの席は3階で遠かったためイマイチ充足感が得られませんでした。
字幕って映っていたのですか? まったく見えませんでした。
これはホール側に一言いっておかねばなりませんね。
また、遊びに来ます。

» 投稿者: くらんべりぃ

こめんとありがとうございます。

わたくしは1階席のW列の真ん中に座っていたので、一番全体が見渡せ、音もしっかりと聴こえていました。たしかにホールが大きかったというの事実ですね。
プレトークで、教会での演奏について触れていましたが、教会での響きなどを考慮するのであれば、中ホールくらいでもよかったのではないかとも思いました。礼拝堂であそこまで規模が大きいとは考えにくいですからね。

わたくしがこの記事で強調したかったのは、かなりの小編成(室内楽程度)で、まったく薄っぺらい演奏になっていなかったいう点です。人数を減らすとそうなりがちですが、それをまったく感じませんでした。

以前に日本のある有名な団体の演奏を聴きましたが、こちらは逆でそれなりの人数をかかえていたものの、演奏自体が極めて薄っぺらく、リズム感、躍動感がまったく感じられず、聞くに堪えかねて途中で席を立って帰ってきました。その団体の「精神性」とかがよく取り上げられますが、意気込みとは裏腹に実力がてんで駄目で、うんざり感とがっかりしたのを覚えています。これまで聞いたワーストコンサートですね。海外で評価が高いと聞いていたので、それなりに期待していった分、余計に失望感がありました。ファンが多いので、団体名は避けますが、二度と聞く気にはなれません。それは日本人がやっているからという偏見ではなく、演奏の質や生理的にまったくあわないということですね。

歌詞の件ですが、かなり高い位置にあって、正直見づらかったです。歌詞を見ていると、演奏者がまったく見えないですからね。これについては、もう少し考えて欲しかったです。字幕を出すよりは、歌詞を印刷したものを配ってもよかったのではと思っています。

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