バッハの生涯と芸術〜フォルケル
「バッハの生涯と芸術」(フォルケル著、柴田治三郎訳、岩波書店)
現在、バッハに関する書籍は、所謂彼の生涯をまとめた伝記、彼の作品を詳細に述べたもの(事典も含む)など、かなりの数が出版されており、書店に行けばかなりの数を見つけることができると思う。
バッハはご承知の通り、帰天後音楽史から忘れられた存在であった。その彼の死後、バッハについて最初にまとめて書かれたものは、「故人略伝」(死者略伝)と言われるもので、C. Ph. E. バッハがミツラーの「音楽文庫」の中に書いたもので、バッハについて簡単に触れている。これはわずか数ページのもので、バッハを知る上で極めて貴重な資料であるが、バッハについて詳しくまとめたものとしては除外していいだろう。
バッハについて詳しくまとめた最初の本というのが、今回紹介するフォルケルによって書かれた「バッハの生涯と芸術」、
Johann Nikolaus Forkel : ÜBER JOHANN SEBASTIAN BACHS LEBEN, KUNST UND KUNSTWERKE - Fürpatriotische Verehrer echter musikalischer Kunst -
(ヨハン・ニコラウス・フォルケル著 『ヨハン・セバスチャン・バッハの生涯と芸術と作品について』 - 真の音楽芸術の愛国的崇拝者のために - 、ライプツィヒ、ホッフマイスター&キューネル社、1802年刊行)
である。
この本は一般的な伝記とはやや異なっている。その特徴を挙げるとすると、
バッハの家系とバッハの生涯を簡単に述べただけで、主として、バッハの作曲の方法と精神、演奏の仕方、弟子の養成、各地の新説のオルガンの吟味、そしてもちろん作品そのものについて語っている。演奏については特に運指法の新たな工夫を詳しく述べ、ペダル鍵盤やストップの用法については、叙述が具体的にならず、もどかしさを感じさせながらも、バッハの独特な方法と強く暗示しようとしている。バッハの作品となると、当時はまだ公刊されたものは少なく、フォルケルはすべてを知り得たわけではない。しかし知り得た限りの作品については、簡潔に時には熱狂的に、あるいは多くの示唆を含んだ書き方をしている。
巻末の訳者のあとがきより
であろう。
現代においては、インターネットの普及などで、すぐに情報を入手することができるが、当時そのようなものはないために、かなり片寄った書き方をしている部分なども見受けられる。例えばクープランとの比較などを読んでも、フォルケル自身がクープランの作品を詳しく知らなかったことが伺える。
しかしながら、フォルケルがバッハの二人の息子(W. F. バッハとC. Ph. E. バッハ)から、大バッハの日常を色々と聞いていたことは確かであるし(C. Ph. E. バッハとは絶えず文通する仲であった)、バッハを知っている人達から同じように色々と聞いていたことは確かなのである。つまり書き方に偏りがあったとしても、少なくとも現代の我々が昔の資料を探してきて、それをまとめる以外のすべがないことと比較して、バッハ本人ではなくても、その関係者の話しを聞くことができたという点は非常に大きい。その意味でこのバッハの伝記は極めて貴重な資料であると言える。
フォルケルはバッハについて、かなり熱が入った書き方をしている。この本の冒頭で、
音楽芸術そのものにとって、あらゆる面で非常に有利であるだけではなく、その種の何物にもまして、ドイツという名の名誉になるはずのものである。ヨハン・セバスチャン・バッハがわれわれに遺した作品は、他のどんな国民もこれに類するものを呈示することのできない、極めて貴重な、国家的遺産である。それが誤った写しによって歪められたり、そのようにして次第に忘却され、遂には湮滅するという危険から救い出す者は、この芸術家のために不滅の記念碑を建て、祖国の功績を立てることになる。
と書いている通りである。彼の頭の中にあるのは、
ドイツ内外のすべての芸術家の中の第一人者の崇高な芸術を、なんとかして正当に叙述することができたら、と思う!
ということであろう。しかしその一方で、
あのような芸術の高い価値と驚くべき広さについて語りうること、語るべきことを、余すことなく表現できるほど豊かな言語は、この世に存在しないことを、心底から確信している。彼の芸術によくなじめばなじむほど、それに対するわれわれの驚嘆は高まる。それに対するわれわれの賞賛も賛美も感嘆も、気の良い舌たらずの片言にとどまるだろう。
と冷静な判断をしている。この文章は、毎日バッハの曲を紹介するときに常に感じることである。あの崇高な音楽をたかが簡単な言葉で表現できないのである。本音を言えば、「実際に演奏を聴いて、感動してください」としか言えないのである。
さて本書の内容であるが、
第1章:バッハ一族
第2章:バッハの生涯
第3章:クラヴィーア奏者としてのバッハ
第4章:オルガン奏者としてのバッハ
第5章:作曲家としてのバッハ(一)
第6章:作曲家としてのバッハ(二)
第7章:教師としてのバッハ
第8章:バッハの性格
第9章:バッハの作品
第10章:推敲するバッハ
第11章:バッハの精神
から成っており、ここに訳者注が折に触れて挿入されている。また巻末に、(いずれも簡単なものではあるが)バッハ年譜、バッハ家の系図、主な作品一覧が載っている。
フォルケルの文章の中には、上で述べた「故人略伝」からの引用がかなり含まれていて、バッハ以外の情報が入手しにくい時代であったことを差し引けば、バッハについて実に信憑性のある伝記であり、それが世界最初のものであると言える。
たくさんのバッハの本が出版されているが、一読すべき本であると確信している。以前紹介した「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」(磯山雅著、東京書籍)と並んで、繰り返し読んだバッハに関する書籍である

