- 2008年11月10日 19:09
- classical
「バッハ:ゴルトベルク変奏曲」(セルゲイ・シェプキン、ディアハート、DBCW2021)
始めに断っておくと、バッハのクラヴィーア曲をピアノで演奏することは、バッハ自体を冒涜するものだと断言しておく。これについては、わたくしのブログ「素晴らしき古楽の世界」の「なぜ古楽器にこだわるのか?」に書いているので、ここでは割愛する。
なぜかわからないが、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」と言えば、グールドとなっている。定説というよりも、「常識」のようになっている。古楽を愛する者からすれば、バッハのコーナーにうんざりするほど、ピアノにより演奏、特にグールドの演奏が並んでいるのを見ると哀しくなる。特にピアノという楽器が嫌いなわたくしにとっては。
グールドのゴルトベルクは名演と言われているが、少なくともわたくしは2回の彼の録音を繰り返し聞いたけれども、「過剰反応」「過大評価」としか思わなかったし、今後も変ることはないだろう。あの演奏の中に、なんら素晴らしさやよさは感じない。
さて、今回紹介するシェプキンによる演奏だが、いつもCDを買いに行っているお店の店員の方から勧められて買ったものだ。そうでなければ、ピアノで演奏しているというだけで、スルーするから
この演奏だが、グールドに並ぶとか越えるという評価である。実際に聞いてみたところ、すごい演奏だと思った。すさまじい早さ。そして自由奔放な装飾。普段チェンバロによる正当な演奏を聴いている側からすれば、異端としか考えられない。しかし、この演奏はよいと思った。
それはなぜか?
それは彼の自由奔放な演奏にあるのだ。グールドの駄演奏が聞くに耐えなかったのに対して、この演奏が聞けるのは、そこにバッハのクラヴィーア曲に対する正当性を感じるからではない。
と捉えただけの話しである。この演奏をクラシックの演奏とは思わない。この演奏を聞いて思ったのは、ジャズだということである。言ってみれば、ジャック・ルーシェのように、バッハの曲をうまくジャズにアレンジしたのだ、と感じた。
このゴルトベルク変奏曲であるが、不眠症の人が眠れるようにバッハに依頼があって作曲されたという逸話(もちろんそれは多いに疑問視されていて、実際のところは、ゴルトベルク自身がこの曲を当時弾きこなせなかったのは、疑う余地がないだろう)があるが、間違っても、この曲を聞きながら眠れるといった演奏ではない。相当アグレッシブである。
たしかにそう考えると、演奏者自身が演奏を楽しんでいることは、聞いていてよくわかる。ライナー・ノーツに彼のインタビューが載っているが、彼自身は、チェンバロ自体を長時間弾いていると飽きてくると述べている。それに対してピアノは、チェンバロの弱点を克服したところがあり、その点で長時間弾いていても飽きないと。古楽で使われる古楽器でなく、ラドフスカが使ったモダン・チェンバロなら話しは別だとも言っている。つまり音の強弱をつけたりできるし、
ハープシコードの持っていた様々な限界から解放される
と述べているが、これについては異論を唱えたい。比較自体が無駄なことなのだ。音を鳴らす仕組み自体が違うのだから。彼のいう限界の中で、バッハは最大限に曲の魅力を引き出すように作曲したのである。だからこそ、グールドなどもっての他なのだ。しかし、シェプキンの演奏は、
と捉えれば、かなり素晴らしいと言えるのかもしれない。
もう一つ彼の演奏についてのよさを挙げるとしたら、それは繰り返しを行っていることである。この曲は「ABAB」という形の繰り返しがなされるのだが、レコード時代の名残(つまり一枚の中にたくさんの時間を使えなかった)か、繰り返しが省略されるのだ。しかし、彼は繰り返しをきちんと行っている。その点は評価に値するだろう
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